第54話   氏家直綱の魚拓   平成15年10月30日  

藩士氏家直綱(弘化2年1845〜明治44年1911)は、氏家正綱の子として生まれた。文久2年の江戸詰めを経て、文久3年(1865)9月藩校句読師となる。慶応元年再び出府する。戊辰戦争には軍事周旋方として新潟県新発田口を守備し長岡まで転戦したが、退路を立たれ会津から山形を経て仙台に行き幕府方の海軍榎本武揚と合流しようとして失敗する。関山、六十里越え経由で帰国を試みたが失敗し、仙台に隠れ住んでいたが明治維新を迎えやっと帰国できた。

この人物官吏としても随分優秀と見えて県内を中心に各地の郡長を歴任している。明治2年(1869)越後水原県に派遣されるも一時鶴岡に帰り明治5年(1872)に家督を継ぎ、職を失った藩士の為の松ヶ岡開墾に参加しているが、明治8年(1875)には酒田県に出仕し、県令(今の県知事三島通庸)に迎えられ明治9年(1876)山形県庄内支庁詰めとなる。明治11年(1878)には初代西田川郡長を兼ねる。明治15年より西村山郡、東村山郡に行き、前知事三島と一緒に福島県田村郡、栃木県芳賀郡などの郡長を歴任して日清戦争後の明治28年(1895)に退官する。


この人物も釣りが大変好きで文久2(1862)から慶応3年(1867)にかけて庄内磯で釣り上げた魚33枚を魚拓にした「鯛鱸摺形巻」(タイ、すずき すりかたのまき=庄内で現存する4番目に古い魚拓)という巻物15mが現存し、酒田の本間美術館に残っている。

「鯛鱸摺形巻」の巻頭を飾るのが文久3年江戸仙台河岸(汐留)で釣った黒鯛である。この年の3月英国艦隊が神奈川沖に来航し、4月には清川村出身の志士清河八郎が暗殺という事件が起こり、急遽国許から呼ばれた子弟21名の中の一人であったのである。当時18歳の彼は風雲告げる内外の情勢の中、故郷での釣りを忘れがたく釣りをしていた。時は文久3年陰暦の7月15日午後2時1枚の黒鯛(左上図)を上げた。

ちなみに庄内の釣のバイブルと云われる陶山槁木の「垂釣筌」は文久
3(1863)の著作である。風雲急を告げる幕末の時代庄内の釣り馬鹿共はのんびりと磯で釣をしていたとは・・・・!!
それでも、やる事はチャンとやっていたからこそ幕末の戊辰戦争の際庄内領内には官軍を一歩たりとも踏み入れさせなかったとも云える。「釣は武芸」の一つ「釣芸」が役に立ったとも云えるのではないか?とも思える。



日本最古の魚拓は天保10(1839)庄内藩の若殿が江戸で釣り上げた鮒が庄内藩林家の古文書に収録されており、その「江戸錦糸堀の鮒」と云われている。当時は魚拓とは云わず「摺形」とか「勝負絵図」と云っていた。現在は魚拓と云い日本国中にどこの釣具屋さんでも貼ってあり珍しくもなんともないのであるが、江戸時代からすでに庄内では魚拓の習慣があり、江戸時代の現存する魚拓が、どこを探しても庄内にしか発見できない。という事は日本最古の魚拓が、庄内に残っており林家古文書の「江戸錦糸堀の鮒」が日本最古の魚拓ということ事になる。




HP「庄内竿の歴史」日本最古の魚拓の所を参照して欲しい。
                  写真は63年の東京フィッシングショウの時の物である。